もやしの歴史
西暦 | 内容 | |
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800年 │ 1200年 |
平安時代に書かれた、日本で最も古い薬草の本「本草和名」(ホンゾウワミョウ)に「毛也之」(モヤシ)として 紹介されており、薬用として栽培されていたという話があります。 画像引用:国立国会図書館より |
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1300年 |
南北朝の時代(1336年-1392年)に楠正成が千早城や上赤坂城(現:大阪府南河内郡)に籠城した際、 兵に豆の芽を食べさせて敵の重囲に堪えたと言われています。 画像引用:国立国会図書館より(楠正成/葛の葉 河内/和泉) |
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1600年 |
江戸時代の『和漢三才図会』(ワカンサンサイズエ)によると、黒豆をもやしにして、芽が五寸ほどの長さに なったところで乾燥させ、よく煎って服用すると、痺れや膝の痛み、筋のひきつりなどに効くと記されています。 画像引用:国立国会図書館より(和漢三才図会) |
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1850年 |
長崎に漂着した異人から豆萌(もやし)のつくり方を教えられ、それが地方に拡まり、 その後、長崎から「もやし」つくりの職人が江戸に上り、当時天下の珍味としてこれを将軍に献上したという話があります。 画像引用:国立国会図書館より(長崎聞見録) |
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1900年 |
明治40年(1907年)頃から東京・横浜・大阪・神戸など、港のある大都市で「もやし」をつくる栽培業者が台頭し始めました。 画像引用:横浜市立図書館WEBサイトより(1909年(明治42年)頃の横浜伊勢崎町通りの絵葉書) |
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1950年 |
第二次世界大戦(1939年-1945年)後、もやしは日本各地で盛んに栽培されるようになりました。 画像引用:長萌産業(株)より |
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1960年 |
昭和40年代の「味噌ラーメンブーム」で、もやしの認知度は更に高まり、消費も大幅に拡大されました。
画像引用:国土交通省WEBサイトより |
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1980年 │ 1990年
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その後、道路網の整備や冷蔵配送といった物流の発達と都会での育成環境の確保が難しくなった事等により小さなもやし屋さんは生産を止めたり、仲卸業に転業するもやし屋さんも出始めて、もやし生産者の生産規模は更に拡大しました。 画像引用:国土交通省WEBサイトより(瀬戸大橋開通 1988年(昭和63年)4月10日) |
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2014年 |
今日では、もやし生産者は全国で約150社ほどになっています。 |